夜空のドラゴンズ

中日ドラゴンズ応援ブログです。

老舗球団 中日ドラゴンズの活躍に私的な意見など書いていきたいと思います。

消えた球団との対決

キャンプ真っ盛りですが、ぜんぜん違う話題。


かつて2リーグ分裂時、セリーグにはもう2球団チームがありました。


松竹ロビンズと西日本パイレーツ。


1950年2リーグ分裂最初のシーズン。中日はこのシーズン89勝44敗4分け。


完全優勝みたいな成績。球団史上もっとも勝ったシーズン。なのだがこれを上回ったのが松竹ロビンス。98勝35敗4分け。ゆうに9ゲーム差をつけられて2位とは・・・・栄えある第一回2リーグ制の優勝を逃してしまった。中日も他球団に圧倒的に勝ち越しながら、松竹にのみ6勝13敗と大きく負け越した。2リーグ制になる前からプロ野球界は混沌となり引き抜きとかが横行。松竹や毎日に優良な選手が集まったとも言われる。水爆打線というような物騒な名前の松竹打線で、小鶴誠はこの年、51ホーマー。当時の記録ではないのかな?この選手、もともと中日の選手なんですけどね。もともと強打者のようですが、この年だけホームランが突出しているのはなぜ?ラビットボールが採用されたとも言われる年代のせいか?ともかく2リーグ分裂のこの年、中日も杉下27勝、西沢46ホーマー。ここまでして勝てなかったのは悔いが残るなあと歴史を見ても残念。


いや、松竹のことを書こうとしたのではないのです。実は西日本パイレーツのことを書こうとしたのですが、この球団、1年で消滅するというとても影の薄い球団なんです。


西日本はもともと西鉄と同体みたいな球団で、本体が西鉄、広報担当が西日本みたいな感じのようです。当時、中日、読売、毎日など新聞社が球界に幅を利かせていたと言っていいのでしょうかね。今でいうIT企業みたいな感じがあると思います。西日本も西日本新聞社が親会社らしいです。ちなみに西鉄も同時期存在。西鉄クリッパーズっていう名前だったようです。クリッパーって大むかし”わんぱくフリッパー”っていう外国のイルカのドラマがあったのでイルカのことかと思っていたら、西鉄はアメリカの航空会社の代理店もしていて、その航空会社の飛行艇の名前がクリッパーっていうとこから来てるらしい。西日本は消滅後、西鉄と合併。というか故郷にもどったというか。西鉄ライオンズとして生まれ変わるが、現在の西武の球団変遷では別系統とされているようで、なんとも影が薄く目立たねえって感じです。パイレーツ(海賊)とクリッパー(飛行艇)が合体してライオンってのも違和感ありまくりで、変な感じですね。


その西日本パイレーツ。1950年は8球団中6位!これまた目立たん。まだ最下位のほうが目立つ。松竹のように優勝でもしていればさらに目立つのですが、そうもいかんかったようですね。選手も有名なのかどうかわからないが、後年の西鉄黄金期に活躍したと言われる日比野選手なんかもいたようです。


中日は対西日本戦、14勝3敗と圧勝。ちなみにこの年、中日は国鉄に17勝2敗と西日本以上に圧勝。松竹は対国鉄戦18勝1敗って・・・国鉄どんだけ食いまくられてんねんって感じです。


で、西日本でしたね。このチーム話題にしたかったが、勝手に話がそれてしまう。


西日本パイレーツは本拠地 平和台球場だったらしいのですが、中日戦の資料からいくと西日本VS中日戦で平和台での試合が無い。


以下 西日本戦の使用球場(ホームゲームも含む)
桐生ー豊橋ー一宮ー鳴海ー佐賀ー多治見ー中日ー岐阜ー豊橋ー浜松ー新潟ー鶴岡ー米沢ー後楽園ー一関ー松阪ー熊本ー広島


以上、全18戦。


中日は既にフランチャイズ球場の中日球場を持っていましたが、それにしても廿浦浦まわっているのはなんで?上記から九州と言えるのは・・・佐賀、熊本くらい。中日のホームエリアもかなり転々としているのは、当時まだ巡業でプロ野球を広めようという意識があったからだと思うが、旅費が大変な気もする。あの伝説の鳴海球場でも試合があったり、豊橋、浜松は当時から使用されていたりと、面白いですね。


と結局西日本パイレーツに踏み込んで紹介することは、難しいです。当時のように、もう2球団くらいあるとまたバラエティーに富んで面白いのですがね。中日ドラゴンズ、西日本パイレーツに勝ち越して1950年シーズン終えました。

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